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棚橋實・坂本堯・大倉民江「二人称の死」研成社

副題に「最愛の人の死をどうとらえるか」とある。あるきっかけで今俺は久しぶりに死というものに真っ向から向き合おうとしている。ソクラテスは「哲学は死の練習である」と述べ、中世ヨーロッパでは「死を記憶せよ」と言って普段から死を意識していた。しかし、現代では死をみんなの目から覆い隠し、死を考えることをタブーにしてしまった(アリエス「死と歴史」)。死という言葉は実は内容があいまいだ。心臓の停止が絶対ではない。科学的な死には実は極めて曖昧な境しかない。人間が概念として作り出した言葉だからだ。
本著で考えているのは自分の死ではなく、最愛の人の死、おそらく最大の脅威となる死である。この死別には大きな喪失感を補うための時間と処置が必要となる(例えばグリーフ・ケア)。しかし、ここで間違いなく言えることは、「死の神秘をうけいれること」「死の恐怖と折り合うこと」から始める以外に道はないということらしい。そうしてこそ強力なマイナスのエネルギーを生へのプラスの契機として捉えるようになれるというのだ。これは頭で理解することはできない。だから本を読んでわかることではない。理解は心でしかできないのだ。だとすれば、目を閉じて想像してみるしかない。最愛の人の死・・・途轍もなく難しいテーマだ。
<メモ1 アフォリズム>
「私は人間が死ぬものであるということを知っているくせに、自分が死ぬとは思わない(ジャンケレヴィッチ「死とは何か」)
「災難に遭うときは災難に遭うが良き候。死ぬときは死ぬが良き候(良寛)
<メモ2 参考図書>
・柳田邦夫「犠牲 わが息子・脳死の11日」

by oritaraakan | 2012-11-26 01:03 | 読書ログ  

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