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諏訪淳一郎「パフォーマンスの音楽人類学」勁草書房

アドルノの「退行聴取」論にあるように、現代人はコンテンツ産業が恣意的にジャンル分けした音楽を聞かされ、それが音楽だと思い込んでいる。ノイズは音楽でないのか?そういった音楽の在り方を哲学的に解析しているのが本著の一つの特徴だ。ここではドゥルーズの「脱領域化」、ガタリの「再領域化」をきっかけに考えている。この二つの領域に出現したり、失われたりする時空間を「テリトリー」とすると、歌は声を脱領域化したテリトリーということになる。旋律にのって運ばれる声は日常会話からはすでに脱領域化している。生きた歌の紹介として奄美のシマウタ(シマ=地縁血縁の共同体)を挙げている。シマの人がこの歌を聴くと「真にくつろいだ気持ちになる」という。ウタガケから始まるこの歌には決まった形がない。即興の世界である。しかし物語はいくつかあり、その最たるものが「カンツメ節」である。薩摩藩制の時代に叶わぬ恋に落ちた男女の情念、そして不服従を歌っている。この歌の真骨頂は「黒声(ウルグイ)」。放浪と異端の民の叫びともいえる。韓国の恨にも似た情念だ。ここで感じたことは、多様性がその魅力を高めている事実である。共有ということが同じ文化内では「テリトリー」を高める一方、シェアリングがややもすれば「テリトリー」を弱めることもあり得る。音楽は人の数だけ色があるのだ。

by oritaraakan | 2012-07-16 09:55 | 読書ログ  

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